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2006.10.07 百周年記念式典の思い出
百周年記念式典並びに祝賀パーティー等の思い出
        田 辺 甚兵衛  農高第2回林業科卒(昭和30) 

 平成5年10月23日(土)菊花も香る佳き日に創立百周年の式典が、渡辺福井県副知事を始め、多数の来賓並びに全校生徒、教職員合わせて、約900名の出席のもと盛大、かつ、おごそかに挙行されましたこと、誠にめでたくここに謹んで、お祝い申し上げます。
 また、これまでこの式典並びに、農友会館「大地」の建設にご尽力されてこられました実行委員会の皆様方に対し心より敬意を表します。
 この農友会館は、我々の研修の場として、心の糧として、又、シンボルとして、後世に引き継がれていくものと思います。

 さて、この日の今田校長の式辞の中で、「我が校は明治27年に農事講習所として誕生し、以来簡易農学校、県立第二高等学校、高志高等学校等と幾多の変遷を経て、昭和28年に現在の単独の福井農林高等学校となった。この間、終戦、福井震災など、苦難と試練に耐え農業教育の大道を歩んできた。そして、卒業生1万余を送り出した。卒業生は、政治経済・文化等の凡ゆる部門で活躍してきている。今後は、21世紀に通用する国際感覚を身に着け、さらに、農業を理解することが重要。2百年に向け、校風と伝統を受け継いでほしい。」と挨拶されました。我々は、百周年という長い歴史の重みと、先人達の築いてきた校風と輝かしい伝統に、深い感銘を覚えました。

続いて、フェニックスプラザにおいて、約750人の出席のもとで、盛大に祝賀パーティーが開催されました。まず、館内が消灯された静寂の中、世界的に有名となっている、橋本雅人氏(農高24回卒業)のかなでる尺八の音色が館内一杯に響き渡り、すばらしい演奏が披露され、続いて一転して、ヨインョ、ヨイショの餅つき、餅つきキヤリによって華やかに開催されましたが(餅つき手 東郷会長・今田校長・道端PTA会長。臼取り手 和田副会長。キヤリ田辺、ハヤシ手竹内、蛇渕氏の2人計7人)静と動のセレモニーが見事なコントラストを演出しておりました。そして、乾杯の後は、琴の演奏、吟舞、太鼓、相撲甚句と、OBによる特技披露で会場を賑わしました。

 図らずも、私が、この名誉あるパーティーの席で、餅つきに合わせてキヤリを歌った事、又、相撲甚句を披露させて頂きました事、またとない光栄なことであり、感謝の気持ちで一杯であります。
 このセレモニーに参加させて頂くきっかけは、私が平成5年1月に県の企業誘致課に在職の時、何か県のイメージアップにつながるPRをと考え、福井県の名所旧跡を絞った相撲甚句を作詞し、誘致活動の折り、披露しており、そのことが、県庁職員で発行している「御本丸」(100号)にも掲載されました。そんなところから、福井農林高校創立百周年記念事業実行委貝会、谷口事務局長より、福井農林の甚句と餅つきに際しての囃子を、何か考えてもらえないかと依頼を受けたことがきっかけで、この一翼を担うことが出来たこと大変感謝しております。

 ここで当時の思い出を綴った相撲甚句と、その背景となっている学生時代を少し紹介いたします。当時、学校の周辺は今のように市街化が進んでおらず、春になると一面菜の花で囲まれるような、のどかな田園風景をのぞかせていました。又、農園の大半が田園であり、農作業は殆ど手作業に頼っていた時代であります。その中で林業科の生徒は、毎春と夏の2回、六呂師にある演習林で
の生活が一週間ずつありました。今のような車社会でなかったため、京福勝山駅から六呂師高原まで一週間分の食糧をリックサックに背負い、約半日がかりで登ったこと。農作業は、春は倒伏杉起こしに植林、夏は草刈り作業等の団体生活を送っておりましたが、当日つらかったことが、良い体験学習として、今はさわやかな思い出の一つとして心に残っております。

 今や、国際化、高度情報化、高齢化、技術革新等の新しい時代の流れを迎え、農業にも一つの転換期が訪れてきました。と同時に、学校教育の中にも、時代の流れに沿った教育方法が望まれるところとなりました。そうした中で、我が母校は、百周年という尊い節目の年を迎え更に発展を目指し、又、新しい時代を背景として昨年から新学料に編成替えが行われました。農業料、園芸料、林業料、農業土木科、生活科が学科改変され、生物生産科、環境工学科、生活科学料、生産流通料に生まれ変わりました。

 私たちの卒業した林業科が、跡形もなくなってしまったので一抹の寂しさを感じますが、やむを得ないところです。教育内容は変わっても、学校そのものの本質には変化あるものでなく、経済社会情勢の変化、それに伴う学校生活環境の多様化等によって、学校の全容が大きく変化し、又、飛躍発展を遂げてきているものと思います。

 当時とは隔世の間がいたします。校舎や農園を眺める時、何時も懐かしい気持ちをもちながら、素通りの生活でしかありませんでしたが、この記念行事を通して学校とのふれあいが出来ましたこと、非常に良い一生の思い出になると思います。今後は、農友会館「大地」を建設して頂きましたので、心のよりどころとして利用きせて頂きます。

 それでは、餅つき嚇子としてのキヤリと、学校生活を相撲甚句に綴った歌詞をご紹介させて頂きます。

「餅つきはやし言葉」

     ヨイショ  ヨイショ  ヨイショ
     ヨイショ  ヨイショ  ヨイショ (かけ声)

ハアー めでたい めでたい めでたやな 今日は 学校の百年祭
                               
ハアーエー 輝き続ける我が校の 百周年で綴る道標(みちしるべ)
       ヨイショ  ヨイショ  ヨイショ (かけ声)

ハアー 次代を抑う若人に 語りつなげよ この夢を
       ヨイショ ヨイショ ヨインョ (かけ声)
       力を合わせて ヨイショ ヨイショ (かけ声)

ハアー 未来へ響けお餅つき 豊作願って音頭とる

ハアーエー 若い力をみなぎらせ 今日はめでたい餅つきよ
    ヨイショ  ヨイショ  ヨイショ (かけ声)

ハアー めでたい めでたい めでたやな めでたいところで申すなら

ハアーエー 鶴は千年 亀は万年 福井農林は 百周年
       アーめでたい めでたい めでたやな (かけ声)
       ヨイショ  ヨイショ  ヨイショ
       ヨイショ  ヨイショ  ヨイショ (かけ声)


    相撲甚句           作詞 田 辺 甚兵衛

ハアー 福井農林高校を甚句で紹介すればよ  ハアー ドスコイ  ドスコイ
ハアー 菊花も香るこの佳き日 誉れも高き我が母校 歳月重ねて百周年 集いて祝う 大祭典

仰げば尊し我が師の恩 心に刻みし あの日のロマン 友と語らう懐かしさ
春は花咲く菜園や 田植えで賑わう 早苗歌
大志に燃える若人の汗の結晶 夏の市 花や野菜や果実類
明日への夢をふくらまし、精出す姿や さわやかさ
小鳥噸り蝶の舞う みどり豊かな六呂師で、心身鍛える 演習林

時は流れど 変わらぬ大樹 大地に根ぎし そびえ立つ
秋は黄金の山となり 豊作祝う 学園祭
人の和広げる 親子づれ

ハアー 歴史と伝統誇り得る農友会館も完成し 明日へ輝く 我が母校
時代の流れを先取りし 益々繁栄目指します
本日参集の皆様方へ 吏なるご支援よ オッホホイ

アアー 願いまするぞえ
ハアー ドスコイ ドスコイ

百周年に臨み、当時をしのんで農林高校での生活風情(春・夏・秋)を思い起こし歌ってみました。



                      平成5年10月23日



「農業は産業の母」

takato1.jpg
「農業教育」に思う   高戸甚右工門 氏(農林40回卒)

このほど、本会副会長高戸甚右工門氏より特別寄稿をいただきました。
高戸氏は若くして日本の代表でパキスタンヘ農業指導者として派遣されるなど、先進的な農業技術普及に取り組んで来られました。
会誌「大地」の特別寄稿より

農業の役割
 科学の進歩と物質文化が庶民生活の隅々まで浸透した現在、地球温暖化や環境破壊、生活習慣病による苦しみなどで、「人の幸とは何か」が問われ、環境保全、自然保護、天然指向に関心が寄せられている。振り返って見るに、これまで我々の生活する環境を守って来たのは、一次産業従事者、中でも常に自然と村峠し、自らの手で災害復旧を繰り返し中、山間地を守った人達(農民)の功績は大きい。
昔から「百姓はばかでも出来る」と言われて来た。しかし、今日、百姓は誰でも出来ないことが認識されるようになった。
マスコミでも家庭菜園、住宅園芸、香辛料作物、趣味の園芸、生物の住む空間等を、外国語も入れ交え賑わっているが、詰まる処農業、農学であって、農業ほど多面性のある学問はない。いろんなさんぎょうが農業から派生したため、農業は産業の母と言われる所以でもある。

戦前の農業教育
 私が、昭和16年入学した当時の福井農林学校(小学校卒業後5カ年)の教育課程は、中等学校としての一般教科のほか、1、2、3学年で植物学、動物学、鉱物学、遺伝学、気象学、物理学、化学等の基碇学科を習い、4、5学年では農業科、林業科に分かれる
私が学んだ農業科では、その応用学としての作物(食用作物、特用作物)、畜産(大・中・小家畜)、園芸(果樹、硫菜、花卉)、植物病理、農用昆虫、土壌、肥料、育種、農産加工、養蚕、栽桑、等の座学、同時に実習があり販売実習は四季を通じて行い、当番制での宿泊実習では、養蚕、育離、麹、温室等を学習し、農業科でも夏休みには演習林での下刈り、炭焼ききも行った。このように座学と並行して実技を学んだため、卒業後はどこの就職先でも因ることはなかったと思われる。当時は、全県下から生徒が集まり、殆ど地域の地主の子弟が入学し農村の指導者養成の場であった。幼少の頃学んだ5カ年の教育は、自然と身に着くもので、原理を学び、作物を育て、家畜を飼う事は、思いやりの心を育て、成長の楽しみを知り、自ずと性教育にもなり、勤労の喜びと共に、人間育成の効果は計り知れない。

「チマキ(粽)」
 昔、中国楚の国の「屈源」は国を憂いて洞羅川に身を投じた、楚の人々はその殉国の至情を哀れんで、その命日の5月5目に「チマキ」を作り川に捧げた、と古書にある。「チマキ」は東南アジアから中国西南部の民族食で、竹筒にもち米詰めて蒸したのがはじまりとか、日本では平安時代以来5月5日の端午の節句の祝い菓子であった。


福井県における農業教育
 福井県に於いては、江戸時代松平藩主が英国視察から帰られて、農業に力を注がれた。県外から有能な農業技術者を招き試農場を設置、農業先進地として注目を集めたことは有名である。
 明治以降の農業教育では、5年制の福井農林学校と乙種農学校として3年制の坂井農学校、今立農学校が終戦時まであった。明治時代、農業は国の基として、札幌農学校(現北大農学部)、駒場農学校(現東大農学部) 設立、各県から1名入学させ指導者の養成を計られたが、地方の福井農林学校や新潟県の加茂農林学校は取り残されてしまった。
 それでも、明治天皇が駒場農学校に行幸になられた1月25日は、農業記念日として福井農林学校では戦中までお祝いをした。
 学制改革の開祖は文部省の権限と思うが、今地方分権が進む中、福井県に於いても種々検討されていると開く。単に農業が斜陽だからでなく、県政の基本として産業教育、特に農業教育の在り方を確立すべきである。

戦後の農業教育
 戦後の教育制度6・3・3制の農業高校3年間で、前述の各学科を習得することは物理的に困難である。特に殆どの中学生が高校に進学する今日、普通科系科目が多く、自然科学関連の授業が少ないと聞く。
高度経済成長のとき工業重視の政策の中で各県に工業高等専門学校が創設されたのは時を得たもので、技術者の養成には3カ年は短い。農業高校に於いても例外でなく、農業こそ5カ年もしくは6ヵ年、しかも若年からの取組みが絶対必要である。
 80年代からのマスコミや経済団体による農業叩きもさることながら、今、農業は 「米余り」の中で衰退し斜陽化しているとはいえ、農業の持つ使命は何ら変わるものではない。「食料の生産確保」「国士の保全」「水源の涵養」「自然美の保護」「人材の育成」、更には漁業に及ほす効果も大きく、人間と自然との関わりにおいてこれからも微生物や、植物成分の探求、一方、適伝子学の進歩に伴う生命工学の分野など前途洋々たるものがあろう。

今後の農業教育の在り方
 21世紀は「生命の時代」であるといわれている。人間はじめ、他の動物、椅物、微生物、更には大洋、地球の生命、環境がクローズアップされ、これまでこれ等を扱って来たのが農業であった。しかし、戦後教育の中では農業高校も3カ年、しかも「農」離れで、農と付く学科が無くなっている。特に時代の風潮としてゆとり教育の中3Kに属する農業は、青少年に全く魅力が無く敬遠されている処である。
特別「農」にこだわることはないが、自然科学、生命など環境バランスに関する教育が乏しいと思う。ものを育てることは人を育てることに通ずることは先にも述べたが、現在の農業高校生を見るに必ずしも農家の子弟でなく、入学時は偏差値で篩い分けられての入学の現実に一抹の淋しさを持つ。しかし、卒業の際には皆喜んで巣立って行く姿は、全国の農業高校生に共通しているところで、農業教育の成果のすばらしさがわかる。戦後半世紀を過ぎた今、国に於いても教育の在り方を審議中と開いているが、誠に時を得たものと思う。地球環境の悪化や、環境難民飢餓人口対策、食料自給率の向上などが叫ばれて.いるとき、自然科学、環境問題を専攻する人材の養成を目指した専門学校 (カレッジ)の設立が必要である。
アメリカは農業国であり、戦後植民地を失ったE・U諸国は、何れも農業に力を入れ、ドイツ、フランス、イギリス共に立派な農産物を輸出し、そのためガットウルグアイランドの場で、対米国摩擦が長い間続いた事は記憶に新しい。
 日本農業は、企業としての在り方と兼業形態の自己完結形農業の併行が続くと考えられるので、企業としての農業経営者の育成は当然であるが、オーストラリアに見る如く農業経営者は高学歴であり、エリートであることが望ましい。

農業教育改革への提言
 最近の新聞紙上から拝見すると、県内の2つ農業高校を1校にする構想があるようだが、1校でも結構、要は便秀な生徒が集まらねば意味がない。優秀な生徒を集めて実力のある社会人を育てることが大切である。物の順序として一次産業の重要さを認識しなければならない。現状では、中学校教員の進路指導への頭の切り換えが必要である。私見として、伝統ある福井農林高校は、4~5年制の農業高等専門学校として、県下各中学校より1名入学、全寮制とし、生物(生産、化学)、環境(工学、整備)、生活(食物、加工)等の学科を設け、社会経験の豊かな教授陣をもって、広く社会のために役立つ人材を育成すべきだと考える。





鳴呼想い出尽きない 女子勤労奉仕隊と私

元若越開拓団農事指導員 高原 清高 氏(農林33回卒)90歳
 坂井市三国町池上109-5

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 私達の開拓団に女子勤労奉仕隊の支援を仰いだそもそもの動機は、第四次満洲開拓青年義勇隊として、昭和16年7月郷土部隊2百数十名が、3ケ年の現地訓練を経て、同19年4月若越開拓団として、旧錦州省黒山県大黒山村に入植したが、当時団員は徴兵適令期を迎え、兵役に服する者はその7割を超えていました。
 戦時下で物資の不足もさることながら、人手不足で開拓建設事業も遅々として進まず財産(土地、家屋、農機具、家畜等)の維持管理にも事欠く状態でしたから、これが対策として団員の縁故移民を願ったがその数僅か3、4戸で、その目的にはほど遠いものでしたから、さらに郷土福井県庁に勤労奉仕隊の派遣を再三懇願しましたが、心よい回答を頂けませんので、その年の11月に寺田団長の代理として私が福井県庁に出向き現地の窮状を訴え、特に藤季先生は深く同情され奔走下されましたが、どのお方にも即答はいただけず困惑の毎日でしたが、翌年1月に県庁より戦時下で男子の送出は出来ないが、目下女子青年を募集中だから集り次第派遣するからとの朗報を得て、私達は地獄で仏の思いで開拓団も物資不足勝の中ではあったが、宿舎の新築等準備萬端を備え精一杯の願いを込めて待ったのでした。

 そして満洲の長い厳しい寒さも薄らぎ、山野の草木も芽をふく4月、待望の女子勤労奉仕隊は、柴田先生を隊長に以下20名到着、長い旅の疲を慰すこともなく、家畜の管理畑地の仕事等てきぱきと処理されるので当時70数名の団員も勇気百倍、やっと生気を取戻したのですが、それも束の間で5月18日、団員60余名大動員6月古田川指導員、7月木下指導員の応召で開拓団の運営も益々窮地に追込まれましたが、その中にあって女子隊員の方々は毎日活躍を続けていただいているので何かとつじつまを合せることが出来ました。

7月を迎え女子隊員は作業にも馴れ、現地の風土にもなじんで来ましたが、中には故郷が恋しくなる者も2、3見え出しましたので、我々は屯懇病と称して渡満した者は大てい1度はかかったものです。連日の慰労と気分転換の意味で同じ福井県から送出された。第6次満洲開拓青年義勇隊耿家屯訓練所(所長 山本清孝先生)へ慰問と奉天市内見物をすることとなり8月7日一行の案内役として私が付添って参りました。
 その頃はまだ平和で列車の中や耿家屯訓練所で演劇の一夜は私の人生の中でも数少ない楽しい思い出として残っています。
 その翌日奉天市の宿舎にて、中野辰夫団員が私宛の赤紙(召集令状)を示して速く帰るようにとのこと、また、団員のほとんどが錦州市へ軍の召集を受けたことを伝えられ、私は吃驚して女子隊員の事は中野団員に任せて急拠帰国、翌日、熱河省の承徳へ後ろ髪を引かれる思いで応召したのです。

 8月15日、終戦となり召集解除とともに、私は軍馬に乗り開拓団に帰って参りました時には、既に団の方々は避難した後で、団本部には常農夫の王貴才以下4人が小銃を携えて警備をしていました。私は団本部のある孤山子部落の屯長の孫息子を使として新立屯街におられる寺田団長との連絡もとれ、当分開拓団に帰れそうにないから私に開拓団の閉鎖整理をして来る様にとの事でしたが、世情は私達の思惑よりもはるかに急速に悪化し、その夜、暴民(その数千人を超えるとも言う)に襲撃され、夜明けには紙切一枚も残さぬほどに掠奪され開拓団の最後を見届けた私は、そのむなしさをしみじみと身に耐えて止む無く王一味の馬車に便乗して新立屯へ出発したが、途中、小東駅近くで私を処刑する様子だと王が知らせたので急きょ難を避け、馬で逃走したが途中で他の暴民によりその馬も掠られ裸一貫で再び孤山子の屯長宅に舞い戻り、数日後に老屯長は孫と2人で私を黒山街の副県長公舎まで送って下さったのです。この屯長の親切、人情は終生忘れません。

 8月26日、黒山街郊外の県立勧農場(農業試験場)にたどりつき、その隊列に加わることが出来ました。当時開拓団では新立屯飛行隊が引揚る際、軍用品を貨車三輌譲り受け、黒山駅迄引込みその物資の運搬を終った夜でした。
 寺田団長が言うには、我々は当分この農場に留り糧秣、被服等は軍隊から頂いたからここ数年困ることは無い、ひと安心だと大張切りの様でした。私はそれには反対で日本人の少ないこの僻遠の地で無政府同様の治安の悪い中で、しかも異国民が大量の物資を保有することは掠奪の的となりかねないので、私は荷馬車15輌を準備して外蒙古へ移行することを懸案したが、団長以下老人達に反対され断念したが一夜明けて早朝より、地元有力者が入替り立替わり来て、小銃弾薬を売れ、いや売らぬの交渉で日は暮れ、その夜、黒山県公署日系人公舎は全部襲撃を受けた。

翌日の8月31日、朝早々にソ連軍が武装解除に来るから武器弾薬全部取揃えて置くようにと知らされ、間も無くソ連軍将校以下123名の軍隊が来て、団長と私を拘束、武器弾薬の提供を命じたが、それを待っていたかのように同時に千名余の暴民の襲撃を受け、物資の掠奪武器の奪い合い、右往左往と逃げまどう団員、婦女子の被服すらはがされ、目も当てられぬ修羅場と化して、私は気はあせれども身の自由もきかずこの世の地獄でした。
 まだ銃声の消えやらぬ中を私達一行(ソ連兵の近くに居合せた者)は、両手を挙げて、黒山街を引廻され徒歩で大虎山街の警察署の建物に収容された。そこには、大民開拓団員やその家族の他、日本人婦女子を交えて数百人も押込められ、昼夜の区別なく婦人達が連れ去られるので、そこで、婦人達は頭髪を切り、終戦と同時に制服を脱ぎ捨てて逃げた警察官の服を身にまとうもの男子と女子が着衣を交換する者等で外観は男女の見分けがつかぬ様にしたものでした。
 
そこで2日目を迎え日本人は、益々増え収容しきれなくなったのを理由に錦州市への脱出をその筋に交渉したが、貨車等の都合もあって人員を制限されて認められたので、我が開拓団では、団員5、6名、女子隊員5、6名を先発設営隊として錦州市へ脱出せしめたのです。そして残りの人達は、近くの東洋棉花会社工場に移されました。この工場は周囲を高さ5mほどの赤錬瓦の塀でかため、その中に工場社宅の建物がある広々とした敷地でした。世に語り継がれている大虎山の悲劇は、これから起きたのです。ここには黒山県、台安県、新民県その他から集って来た官公社の家族が主で、老若婦人等で健全な男子はほとんどおらず、その数5百有余名ともなり、表裏の門は満人治安隊員に警備されていて自由な出入は出来ませんでした。
 毎日、朝夕の2回粟粥が差入れられ、1人当り2碗で大根清2切れ、来る日も来る日も同じもので、日が経つにつれ栄養失調と伝染病チブス、赤痢、マラリヤ等が蔓延し、日に10人、多い時には30人も死者が出るし、昼夜の別なくソ連兵、満洲人の婦女子あさりでごった返し、その結果は性病で苦しむうめき声に同情はするものの為すべもなく、又、私達男子数人は、死骸の運び出しを日課とし、病人を医者にかけることも出来ず、薬もなくこの世の地獄でした。その中にあって、この開拓団員や女子隊員を守り、如何にして無事に郷里に連れ帰れるか、帰らねば郷里の方々に申訳が出来ないと決意を新たにし、最善の災を尽すべく寝食を忘れて奮斗の連続でした。

 それから10日も過ぎて、収容所内の婦女子あさりも一段落した頃、ソ連兵はトラックで乗り付け、男子全員を裸にして、働けそうな者はトラックに乗せ黒山街に連行して、高梁粟棉花牛馬等、農作物を主として貨車積する使役を果せられ、その中に私や大瀬戸副県長達も混っていました。私は大虎山の収容所が気掛りでならず脱走を考えましたが、夜は黒山刑務所の監房に入れられ鍵を掛けられ、日中はソ連兵の監視が厳しくそのすきがなかったが、食事は彼等同志のグループでテーブルにつくので、この時とばかり夕食のとき脱走して大虎山に帰ることが出来たものです。ここの生活が長引くにつけ我々が開拓団でも、松井、野村の老人が死亡し、元気な者はほとんど見当らぬ様になり困りはてていたのですが、その頃木下先生が来られ、まもなく古田川先生も帰られ、私は百万の味方を得た思いで迎えたのですが、病気になられたとかで室外にほとんど姿を見せられず、今にして思えば、それにはそれだけの理由があった事と察しられるのですが、当時の私には無我夢中でしたから落胆はしたものの、そんなことにかかわりあっておられん状態でした。30余年を経た今日、一時の悪夢として非常に悲しく、当時の開拓団における私達の地位と責任を思いかえして残念でなりません。

 11月になり、ここを脱出するに失敗を3度も重ね、秘策手段を尽して待望の錦州行きが実現したのです。脱出にあたり木下先生、古田川先生に錦州行さをすすめましたが、奉天行を希望されここで開拓団と袂を分かち南と北に向ったのであります。
 大虎山駅では、来る列車も来る列車も満載車ですので、やり過し夜になってから駅長さんが陣頭に立ち貨車の一部の人を立退かせ、そこへ私達一行を乗せ、無蓋車で寒さ防ぎとして駅員の心尽しで乾草を差入れていただき、気温は零下何度と下り、加えて列車の走る為の寒さで、ネズミの様にその乾草の中へすっぽり潜り込んだものでした。こうした索漠とした世にあって、中国駅員の温情にふれて幾度も幾度も手を合せて拝んだものでした。列車は、普通の3倍も時間が掛り一昼夜にして錦州駅に下りたが、一行は駅を追い出され、夜で行く処もわからないので、錦州公園に一行を待たせて私は夜明を期して、寺田団長の消息を尋ねて廻りました。わからないので元満鉄拓殖課員の石黒、大橋、下山先生の舎宅を尋ねましたが、私達の給与や幾らかの開拓団の運営費は寺田団長に渡し済で、あいにく君達に差上るものが無いとのことで寺田団長も見当らず、私も途方にくれ石黒先生の案内で日本人難民収容所に落付きましたが、その夜、私は所長に呼び出され宿泊料は無料だが、賄料を前金にて支払いなければ食事の準備は出来ないとの申し渡しを受け、無一文の私達は困りはて石黒先生、大橋先生に豆腐仕入の資金を借りて、翌日から男子はその仕入役、女子隊員は日本人街をトウフ、トウフと掛声を掛けて売りに歩き、私の妻など年輩の婦人は錦州駅等でタバコの立ち売りをしてかろうじて食事代を支払うことが出来たものです。

 数日後、寺田団長は錦州病院におられることがわかり病院に尋ねたが「私は老人で活動も充分出来ないので、私に代って君が若越開拓団の面倒を見ていってほしい。私はこのままそっとして置いてほしい」と言われ、何等要領を得ぬまま立退き、非常に淋しく人の頼りなさをしみじみ味ったものでした。また、団員達の顔を見るにつけても寺田団長にお逢したいきさつは口に出せませんでした。

 12月2日は、朝暗い中から銃砲声がとどろき、共産八路軍と中央軍の戦斗で、共産軍の撤退がはじまったので、幾多の戦斗で戦場に馴れている私は、好機到来と男子団員を従えて見物に行き、満鉄社宅より退却する共産軍の後を迫ってその二棟を占領し、その社宅に退却の際残していった元関東軍の程抹、医療薬品、軍服等あらゆる物資を所狭ましと天井裏まで詰込み、難民収容所の一行は、この社宅に移りここの住民となったわけである。

 また、この物資を元手として錦州公園に一膳飯屋と雑貨、駄菓子屋を開店することが出来やっと生活も落ついてきたが、片時も忘れられないのは巣山街勧農場で、暴民の襲撃の際四散した団員、特に女子隊員の安否でしたから、一日も早くその消息を知りたく、それには現地におもむき探すより致し方がないので、大民開拓団(第五次郷土出身青年義勇隊)も同じく黒山街に残留しているので、副団長 松井伝兵衛先生(当時、日僑管現処に勤務)に相談して同行を願ったが、この治安の悪い時に、どうかと思うと積極的でなく、敢えてと云うなら自分は行かぬから渡辺先生に頼めとのこと、また、旅費も何時帰国出来るか見通しのたたぬ今では、そんな金は出せぬと結果的には何も得られず、止むに止まれず私達の商売の売上金の幾らかを持って行くことになったが、公式文書を携えねば現地での捜索活動に事欠くことを考え、日僑管理処に交渉したが要領を得ないで困っている時、隣りの住人で元錦州省庁の警務宮であった人達4、5人の中で年輩の大江さんが深く同情されて、錦州市治安維持会の発行による私の護照票なるものを交付していただき、それに元気づけられて唯一人黒山街へ出向いたものです。

 女子隊員は、柴田先生以下全員黒山県立病院に収容されていることを探し出して救出に行き再会出来ました。現在まで無事日本人たちを保護して下さった医局の中国人医師や、皆様に心からお礼を申しあげて、一行を馬車で出発させ、途中、大平ゆきを女子隊員の埋葬地にお参りして心中お詫びを申しあげ、大虎山街に引揚げた。ここまでは、大民開拓団柴田先生以下全員も同行したが、大民開拓凶の彼等は奉天市へ脱出の意志がないので、別れて私達は錦州の宿舎に同居することが出来たのです。

 21年の正月は、せめてもの思いで粟の雑煮で新年を祝い、その頃では商売も順調でしたので女子隊員の中には、娘さんらしく中古ではあるが、晴着を買って着て見せてくれた者もあったが、一日も早く郷里へ帰りたい気持は誰も切実な願いであった。
 年も改まり柴田先生は、特技の医薬品の関係で病院務めをはじめ、私達男子は錦州飛行場の復旧工事に毎日かり出され、早朝の仕入は男子が続けるものの、販売は婦女子で取仕切る様になって、ここでの滞在が長期化の様相を見せていたので、中には五島小春隊員、松井さんの様に結婚式を挙げる者もありました。

 私には今迄とは変った喜びや心配事が出てきたが、その頃、黒山街での暴動の際、消息を断った岡田乙吉さんは、現地で銃弾に当り死亡されたことを大虎山の「いよや旅館」の奥さんから聞きだし、その冥福を祈るものの現地を尋ねることも出来ず、今もって申訳ない次第です。
 5月に入って帰国が始まり、錦州駅を通過してコロ島へ向う日本人の列車は、毎日続く中に私達も26日引揚船に乗船することが出来て、佐世保へ上陸し、ここで検疫のため4日泊められ、夢に見た懐しい福井駅に下りたのは6月5日の夜でした。早速、県庁を訪れ宿直室にて一泊、翌日、藤季先生はじめ関係者の出迎えで知事臨席の下に、帰国の挨拶と若越開拓団及び女子勤労奉仕隊の解散式を行い、式場の皆さんに激励の言葉をいただき再会を約して家路についたのです。
 女子隊員との交りはそう長い期間ではありませんでしたが、日本人の誰でもが何時でも経験することの出来ない汲乱萬丈の出来事を乗り越えて、平和の有難さをしみじみと感じ、幾多の同志の犠牲者の冥福を祈りつつ、皆さんと再会出来ることを楽しみにしている今日この頃の私です。

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