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2006.09.05 恩師からお便り
恩師の消息 (昭和40年~50年迄)

毎年 同窓生の集い 農友会の総会が6月に開かれます。そこで出てくる話は「先生の健在」が問われます。何よりも健康の具合を案じておりますが、ご返信いただいた先生方を掲載しました。 (敬称は略させていただきました。)

稲田 昭彦先生
定年退職して満七年が経ちました。この間、自治会や集落の生産組合の役職の外、民生委員としても3期目で7年を経ております。 人間ドックヘ入りますと糖尿病ですと叱られますが、お陰様で元気に毎日を農作業中心に取りくんでおります。

大島 哲夫先生
福井市文京6-22-22
・昭和29年から10年間、駆け出しの時期を、福井農林高校に勤務、その間、担任・部活・寄宿舎舎監等大変貴重な経験をさせていただいた。独立後間もない学校であったので、学校の活性化に若さと情熱で体当りの毎日でした。とくに運動部の活躍で生徒に自信を持たせるべく取り組んだことが今日でも印象深い。先輩教師のご指導に深く感謝します。老化しましたが元気です。

・今年こそは病院と仲良くならないようにと年の初めに決意しましたが、正月早々から胃痛になり地区の医師にかかってしまった。その後3回程、胃痛になり地区の内科医にお世話になってしまつた。2月に入っても良くならず、結局日赤綜合病院へ入院し現在治療中である。

小澤 重徳先生
福井市新田塚2-82-4
・定年退職後鯖江市役所に5年間嘱託就職。現在は在宅。盆栽と花の手入れが日課です。健康度は中位です。想いではやはり演習林でしょうか。時々、テレビのニュースで六呂師高原の景色が放映されますが、その画面の隅に映されている演習林の杉林が懐かしく、感無量の想いで見入っています。 最近、70歳の手習いで囲碁を覚え熱中しています。残念ながら棋力はハルウララ級です。

・退職後、一度大きな病を経験しましたが、いまは年齢相応の健康度で頑張っています。毎日が、昔からの趣味である盆栽の手入れと、最近覚えたインターネット囲碁にのめりこんでいます。ときどきですが、県やシルバーセンターなどから依頼を受けて、庭木の労定の講習会に出かけています。会場には、必ずといってよいくらい1人2人の卒業生のお顔が見受けられ、休憩時間や講習会後に懐かしく話し込んでいます。それがとても楽しみです。在職中に出版した「造園実技の基本」新訂版(理工図書)が、造園関係本売れ行きベストセラー5位に選ばれました。書店で立ち読みでもしてください。

小澤 和順先生
現在晴耕雨読の生活で、寺の主兼寺男として境内墓地の草むしりに明け暮れて居ります。
10年程前に心筋梗塞をわずらい以後インシュリン注射を続け何とか生き長えて居ります。農林にお世話になった7年間、人情味豊かな校風の中で本当に楽しく過させて頂きました。今は「生を明らめ死を明らむるは仏家天事の因縁なり」と云う道元様の言葉が身近に感ぜられる年になりました。皆様の御健康を心よりお祈り申し上げます。

金谷 精先生
福井市松本2-18-25
・人生80年、農の道に育ち、幾多の人様のお蔭様でそれなりに健康でふるさと坂井町下兵庫の「オスカーケンネル農場」を耕しております。
「大地」の皆様どうもありがとうございます。立春をまちわびしく昔農林学校で学んだ温床育苗で今年も、ナス・トマト・キウリなど沢山の苗を育てることを楽しみにしています。
※オスカーケンネル農場=旧制 専門学校母校農場名
      
・東京駒場には今も五反ほどの水田があり、オスカー・ケルネル先生の石碑があります。学生時代に夜を徹して稲の研究をし、福農に在職中は、田植機に関する農業クラブ全国大会で研究発表をした生徒諸君をなつかしく思います。平成2年4月、ふるさと坂井町下兵庫に「オスカー・ケルネル農場」と現農友会副会長林 利ニ様に標柱を設置していただき以来ひたすら耕職の道にいそしんでいます。「瞬間現在に生きる」私の人生訓をかかげて人生最後の日まで生命をはぐくむ人の心を大切にして大地の恵みに感謝しています。

笹口 政則先生
過去に昭和51年~平成元年までの14年間勤務致しました。その後、坂農へ転勤し、12年後に戻りました。現在本校に戻り4年目です。担任は、本校での経験が長いのですが、卒業生に出会うと、どちらの卒業生かと当惑する一瞬があります。5学科6クラス時代の生徒数はおりませんが、部活動等は過去と同様活発に活動しております。しかし教育内容は大幅に削除・追加がなされました。農業教育の根底に流れるものは、変えてはいけないでしょうね。今は昔になりけり…を感じる年になりました。ドックで糖尿の気配ありとの診断、自己診断で、8点ぐらいでしょうか。

高間 新三先生
福井市文京4-11-5
・昭和40年代に卒業なさった当時の皆さんは、今はまさに各界のトップリーダーとして活躍されていますこと、ご同慶の極みです。あの頃は、戦後日本の躍動期に当り、活気がありました。あの意気での、今後いっそうの精進を祈念しています。人生の思秋期から厳冬期にさしかかった今、周囲への感謝の思いを忘れず、ささやかなボランティアと好きな古寺巡りや自然散策などで、日々を楽しく過したい。
 
・私が福井農林高校でお世話になったのは昭和38年から10年間でした。その間に卒業された方々が今まさに、各方面の指導的立場で活躍されておられる姿に出会うことが多く、嬉しく誇らしい限りです。昨年の夏、担任だった生活科のクラス会に招かれた折には、遠路各地から集った皆さんが、妻・主婦・母(祖母)・地域人として立派に生きておられることを感得でき、これも福農での学びと労(実習)が奥深くで支えていると思いました。小生今秋、古稀を迎えます。この年齢から見えてくるものを楽しみにまた大切にして日々を心穏やかにすごしたいと念じています。

竹内 敏英先生
退職して、平成18年3月でまる7年になります。退職後は、第2の人生として百姓をやり、今では立派なお百姓さんになりました。朝6時起床、夜10時就寝の規則正しい生活です。現在の私の「生きがい」は他の人から見ればささやかなものですが、農業を含めて家の外での仕事が楽しくまた孫二人、「孫」という歌ではありませんが、なんとかわいい、と思っています。退職してはじめて、私は田舎に生まれて、育って、本当に良かったなあ・・・と心にしみるこの頃です。

(故)竹澤 喬先生あわら市熊坂43-7
・26年4月に農業土木科新設と同時に着任し、以来定年迄38年間、農業土木教育一筋に勤務し、寄宿舎修明寮の舎監長など前後15年しました。実に良い学校でやればやる程、効果が上がり、進路指導(主に就職)部活動では相撲部、ウエートリフティング部顧問など実に13年間やり、思い出多いですね。健康度は年に体力が低下し、田畑と、広い自家山林の手入と巡視で、6~7点で晴耕雨読です。

・私の人生は福井農林と共にありました。定年迄38年間在職し、実に思い出の多い学校で、土木教育と修明寮舎監 (前後15年間) 相撲、ウエートリフティングの顧問にと大変お世話になりました。定年以後は12年間も坂井農で土木講師としてお世話になりました。教員生活、実に50年しました。皆さん、体を大切にして、大いに頑張って下さい。
体力は年々劣えましたが、晴耕雨読で田畑と山林の手入に努力してます。(合掌)

松木 文雅先生
あわら市二面41-4
・『健康度の自己診断』…本年は84歳の乙酉の歳男です。定年退職後、20年間に脳梗塞症、痔漏手術、前立腺摘出手術、ヘルペス症と老人並の入院加療の体験をしました。現在も1ケ月1回検診と投薬(高脂症と血圧の薬)を続けています。お陰さまでここ3年間は足腰の弱化以外に自覚症もなく元気で過しています。自己診断は10点滴点で7点ぐ
らいでしょうか。お陰さまで、かく生かされていることの不思議を有難く思うようになりました。朝夕お念仏を戴いています。 合掌

・昭和37年4月~昭和45年3月の8年間社会科教師、指導部図書部を御厄介になりました。恩師と呼ばれいつも恥かしく思っています。アルバムの中の演劇クラブで御一緒に出演した諸君達はもう立派な熟年にて御活躍のことと存じます。小生お陰様で元気で新年を迎えさ
せて頂きお念仏を申しています。

光山 文江先生
4年前、退職後に2度目のお勤めをしました。時移って今回は男子も家庭科の授業を…第2農場での生活科の田植え、お茶摘み、水耕きゅうりの味農業祭の豚汁、夏休みの宿泊実習、フェリーで行った北海道の修学旅行、創立80周年行事、農業クラブ全国大会の開催と在
職4年でしたがほんとうにたくさんの思い出です。古稀を迎えました。おくればせながら内孫の専任保母兼家政婦です。片手間に無農薬野菜と花作りを楽しむ日々です。

藤田 啓子先生
教員生活38年間の内、福井農林高校には二度お世話になり、通算20年間勤務させて頂きました。家庭科を専門とした私にとって、専門学科のある学校に長い間勤務させて頂いたことに、感謝しています。現在、退職して4年が過ぎようとしています。最初の1年半は、父の介護もありましたが、自家用野菜作り、趣味のバッチワーク、時間を見つけての散歩、春・秋の山登り、ボランティア等をしています。また、国内旅行と年1~2回の海外旅行も楽しんでいます。

辻 千鶴子先生
私は81才になりました。お洒落が似合わなくなりました。駅前でのカルテユアも全部やめました。学校生活は退職後藤島高校に7年を加えて42年間63才で若い人達との生活にさよならをしました。そして、駅前での25年間フランス語、中国語、趣味の等々、多くの方達が参加して頂きました。母を101才で見送り私も老化してしまいました。杖がなければ歩けません。でもがんばっています。海外旅行も大好き。昨年はウィンの方面に出かけました。一昨年北の北の果て稚内礼文島まで出かけました。ガイドさんがこれは当時の小学校です。北陸の青年が夢を頂いて開拓された土地ですと説明されて感動しました。 後10年動いて、動いて、町の活動にも参加して納得のいく人生を送りたいと思います。末筆ながら皆様のご健康とご活躍を心からお祈りします。

宮腰 菁治先生
退職して8年になります。福井農林高勤務は3年間でしたが、いろいろなこと思い出します。先生方の御指導のもと資格試験合格をめざすなどがんばっていた生徒諸君のことや一緒に越美北線のトンネル工事を見学したことなど、また食べ物の話で恐縮ですが香ばしい牛乳や鶏のくんせい、林先生から超々特大の梨を分けていただき非常においしかったことなど……。今、高齢の両親と暮らしながら米と野菜を少々栽培していますがいろいろ工夫してやっていくこととやはり収穫が楽しみです。四季折々の景色の中でジョギングも楽しんでいます。また、近くにある生活学習館の講座や県立図書館などにもときたま出かけたりしてまずまず元気に過しています。皆様の御健勝をお祈りします。

毛利 義照先生
福農勤務を拝命し、加藤校長より仰せつかった事が花弁園芸担当でした。以来、手探りながら花作り一筋、カーネーションやシクラメンなど恥じ入る物ばかりで生徒さんには草取りばかりで申し訳ない思いで一杯です。福農を跡にして30余年、年齢など忘れて今は唯謝恩の毎日、女性相手にクラブ活動の様な事や時たま講演あり、花壇コンクールの審査で見てまわるのも楽しみです。又バラ作りや鉢花ないじっていますが、家庭園芸も今は微生物農法時代、身近に植物がないと淋しい性分なので体や頭を動かす様心がけています。後輩は先輩の背中を見ながら育っています。会員ご一同ご自愛下さい。

山本 豊先生
昭和61年3月に福井農林高等学校を出てから、三国高等学校、藤島高等学校を経て、現在、勝山高等学校に勤務致しております。定年まで残り3年となりました。福井農林高校に在籍させていただいた9年間が、私にとっては最も精力的に活動した時代であったと今ふり返って思っております。皆様のお蔭と感謝致しております。今も理科(物理)の面白さを生徒に伝えたいと情熱を傾けています。

和田 政子先生
大変おなつかしいお便りをいただきまして有難う存じます。私は94才以上年を重ねています。昨年は病院(入院)生活でした。今年は週1回の病院で又命をいただきまして有難く感謝しています。御当校にお世話になりましたのが、昔、昔、を思い出しています。先は御当校のご発展を心からお祈り致します。                


恩師の消息(昭和28年~40年迄)
(敬称は略させていただきます)

今田 惣兵衛先生
  福井市市ノ瀬21-2
退職して十一年が過ぎようとしています。月日のたつのがとても速く感じられます。身体の方は自己判定では健康度60~70%程度ですが、月一回の医者通いは続いています。春から秋までは田畑で汗を流しています。近年カラスとイノシシの被害に悩まされており、その対策に追われています。農作業の合い間や農閑期には好きな囲碁を楽しんでいます。又、2年前からこども囲碁教室も開いています。小学年の子に教えています。

川端 せい子先生
坂井市丸岡町霞3-4
「勤労の意欲に燃えて夢見るはみどりの大地・・・・・」。福農の校歌に見送られて退職後、はや16年目の春を迎えました。2人の娘は結婚して家を去りました。茶道遠州流をお伝えするようになり早10年になりました。ささやかな茶室「妙超庵」へおついでの折ぜひ一度お越し下さいませ。一服召し上げたいと思います。

小林 一郎先生
福井市和布町3-29
短信 至極元気で暮らして居ります。晴耕雨読の生活で、午前中畑で野菜や花づくりをしています。老人クラブの世話をして居り楽しくやっています。体力、気力ともに衰えました。頑張って行きたいと思っています。

白川滝之助先生
福井市上野本町34-1
寒さ厳しい候 御皆様には御健康にて御活躍の事を存じます。私は退職後早や20年になり、自治会、社会福祉会、老人会、児童館等に関係しましたが少なくなり家事や趣味、医者通い等して寄る年齢も重ねてOB会等にも段々と出席が少く申し訳ありません。余生を健康で有意義に過ごしたいと存じています。御皆様には職場や地域で活躍され心強く存じています。御皆様には健康に留意され御活躍されます様に心から御祈り申し上げます。 敬白

坂本 肇先生
清水町真栗23-30
昨年十月 馬令を重ね満80歳になりました。昭和43年、21年間の教員生活を終え本業の産業動物の診療に従事、その傍ら老妻と二人三脚で小さな商店を経営しています。健康度は65歳ぐらいだと自認し町の老人クラブの連合会長を6年勤めていますがこれも年貢の納め時が来たようで、すべての仕事をやめて楽をしたいと思うようになった反面ボケないかとも心配しております。高齢になると健康は大事ですが、伴侶の方も健康であることが何よりも大切です。

竹内 謙二先生
坂井市丸岡町霞ヶ丘1-36
2年ほど前からようやく時間的余裕ができたので冬はスキー、夏は山へ行くよう心掛けています。自己診断は9点くらいです。いまの世の中について、憲法の改正、教育基本法の改正の動きが強くなっています。微力ですが大いに反対していきたいと思っています。

竹内 正宏先生
福井市下中町6-366
拝啓 退職してから、まだ1年ですが、健康状態はいたって健康そのものです。春と秋は野良仕事を行っております。その他はゲートボール三昧、又、社会教育会の体育振興会の手伝いと県のゲートボール協会の手伝いを行っておりますので、比較的退屈はしておりません。先日、今田元校長先生にスカットランドにてお会いいたしました。昨年からゲートボールを始めたそうです。

竹村 光雄先生
福井市大東1-2-12
73歳、健康度自己診断は8点位、血圧は平常ですが、コレステロールが高め、胃の消化力が低下、否応なしに小食です。小生は二度、農林高校にお世話になりました。個性豊かな先生方と勝れた素質の生徒達を懐しく思い出します。さほどの実力もなく教頭を拝命し曲りなりに務めを果せ得たのもこの方々のお蔭で改めて福井農林に勤務させて頂いた幸運を心から感謝しています。

坪田 すて先生
福井市定正町16-4
私、お蔭様で悠々自適に畑や孫の世話を楽しみにして元気に暮しています。今から40年も前在職中、先生・生徒と共に少し農業の勉強や自習したお蔭で健康に過ごすことが出来るのだと感謝しています。生徒にとって文化祭や農業クラブの研究発表等、恵まれた自
然環境と友に伝統のある学校で培われた人間関係や道徳性は何より得難い体験と思います。親切で明るい家庭的印象を忘れません。

平林 敏男先生
永平寺町松岡神明1-40
目の具合がよくないので何時もテープやラジオを開いているこの頃です。余り外には出掛けません。運動不足のせいか近頃太りすぎの様です。(代筆)

三上 実雄先生
福井市二の宮3-34-3
私の健康度は9点で健康です。在職中の最大の思い出は若狭農林高の昭和42年10月26日の高教組の学校ストライキです。これに強制参加のことがキッカケで組合を脱退しその後福井農林に転勤になり非組合のまま過してきました。この事が本務に専念でき専業農家の育成として「耕志会」の会員と交流し福井新開の園芸記事を28年間続けています。

土屋 黎子先生
福井市乾徳町2-2-18
退職して二年、花いじりをしたり、ボランティアなど、いただいた自由な時間をゆったりと思いながらまずまず健康にすごしております。在職時は、故林先生の炉辺談議や、第2農場での作業、温室での鉢花の世話など、忙しくそれでいて細やかや人情に溢れた学校生活を懐かしく思い出しています。末筆ながら御無沙汰のお詫びと皆様の健康をお祈りします。

野村 寛治先生
鯖江市鳥羽町34-44
退職して7年、農林高を去って10年「大地に生きる」をモットーに一百姓として元気に土に親しんでおります。在職中、創立90周年、百周年、また地域にねざした活力ある学校づくりに微力ながら参画できたことが強く印象に残っています。今春から過に1度県立大学にお邪魔することになっており、一寸緊張をしております。又お伺い致します。

増田 久子先生
福井市上中町2一11-2
定年退職後19年の歳月がたちました。その間祖母の看病と、孫の面倒を見ながら毎日雑用におわれていたので、あっという間に過ぎ去りました。私は長い間足の痛みのために3年前に手術をいたしました。現在は正常になりましたが、年のせいか体に故障も出て通院療養中であります。この頃外へ出ることがだんだんと億劫になりました。毎日あれやこれやと忙しいと言いながら、気心の知った友人と国内旅行や温泉へ行って楽しんでおります。

羽生 赴夫先生
福井市上中町3-1-52
至極健康でネンリンピック(60歳以上の大会)に剣道で3回(宮崎、大阪、徳島)出場し、1年おきなので今年もと練習を重ねたいと思っています。日常は畑仕事と孫の相手をしています。町内の役は卒業して、のんびりと、ピンピンコロリを目標に古稀を乗り切りたいと願っています。

吉川 幸雄先生
福井市米松1-2-11
私立高校の非常勤を退職してから早11年になります。以来健康にもよいということで自家用の野菜や果樹の栽培に精を出しています。野菜の苗はすべて農林高校で買います。今の所野菜の方は成功ですが、果樹の方は失敗に終り残っているのは柿・キウイ・イチジクだけです。福井市内に住んでいますが、散歩に出ますと、偶然街角で会員の方とお会いすることがあります。その時は、必ず暖いお声掛けをいただき有難いことあと思っています。老齢期に入っていますが、一病息災のようで毎日不自由なく当たり前の暮しをしています。




☆坂本 肇先生(畜産)
昭和37年から43年まで、母校農業科の発展、特に畜産関係にご貢献いただきました。
〒910-3616  丹生郡清水町真栗23-30

●お元気なご様子で何よりです。福井農林高校在職時の思い出をお聞かせ下さい。

○昨年秋、一時健康を害し、日赤病院へ入院しましたが、今は元気になりました。 私は昭和20年、専門学校卒業後、畜産技師として、農業高校で教鞭を執り、昭和37年に福井農林高校へ赴任しました。伝統ある学校に奉職できたことは無情の喜びであり誇りでした。福井県下で畜産技術者を養成することが私の使命と張り切ったりしたものです。

 在任中、牝豚の種付けのため豚をオート三輪で運んだこと、生徒の夏休み課題とした干草製品を嶺北一円をトラックで回収したことなど忘れられぬ思い出です。
 学校で乳牛を導入し生徒に搾乳から乳製品加工までを実習として体験してもらったが、これを体験した生徒は余程印象に残ったのか、クラス会等でいつも話題となります。

●退職後は、如何お過ごしですか。

○退職後は、獣医としてJA武生や酪農家から声がかかり検診等で出かけたりしています。検診先には、福井農林高校を卒業して酪農家となっている武藤明彦さん(農高37回卒・宮崎村)や奥村修さん(農高16回卒・清水町)宅がある。「狂牛病」事件で死活問題に直面している酪農家のことを思うと心が痛みます。JA等での講演では、教員時代の実践的な体験を話題にしましたがとても好評でした。

 地域では昨今、清水町老人クラブの会長として多忙を極めています。町内には約1500人の会員がいて、会長3期目の現在でも把握に苦労しています。又、丹生郡老人クラブ副会長として、武田哲夫会長(農林41回卒・宮崎村)を補佐しています。
 77才の高齢をも顧みず清水町明るい選挙推進協議会会長も引き受け、まだ切磋琢磨の心境です。

☆光山文江先生
昭和46年から4年間、生活科の発展、女子教育の推進にご尽力いただきました。
〒918-8035   福井市江守の里卜502

●心よいご協力の電話をいただき、お元気そのものと思いお伺いいたしました。ご退職後も有意義な人生を過ぜれているとお聞きしていますが、

○在学中の思い出の一つは、北海道への修学旅行です。高校生の北海道修学旅行は、はしりの段階で新鮮な企画でした。その目的、意義づけに苦労しましたが、敦賀港から巨船で出港し、38時間の船中での思い出等は今でも心に深く残っています。
 それから昭和48年の創立八十周年記念事業で、立派な和風、洋風庭園が構築され学校の雰囲気に潤いが出来たことと、教員一人一人がそれぞれの分掌を果たし厳粛な式典が挙行できました。

 また、福井短期大学等で宿泊研修が実施されて生徒達に経験豊かな講師からの体験学習制度が実施されたことです。
主人を亡くして7回忌を迎えようとしていますが、私も気を持ち直しての人生の毎日を送っています。しかし、お世話になつた方々を『お悔やみ欄』で拝見するようになり、私も老いたということですかね。

現在なお福井大学で聴講生としての学生生活を送っております。昨年のエキスポ恐竜
展では、解読員として務めました。実父は福井農林学校(大正15年)を卒業しましたが、父の勤務の都合で私の幼少時代は上海で育ち終戦後帰国しました。

 福井農林高校に務めさせていただいた経験と実父の影響で野菜の家庭栽園に生涯を感じており、花も数多く育てています。担任をした同窓会に時々招待されますが、しっかり奥さんになられた人達に囲まれて楽しい一時も過ごしています。

●充実された人生を過ごされておられ恐縮いたしました。いつまでもお元気でお過ごし下さい。ありがとうございました。


☆野村 寛治先生(農 業)
昭和55年から平成7年まで農業科目担当として、農業基礎の授業展開の指導案作成、のち教頭を勤められました。

●こんにちは!とうとう雪になりましたね。暖冬に馴れてきたので雪が来るとひどく厄介なものが降ってきたという実感がしますが、こうしたお住まいでは尚一層強いでしょうね。

○どうも寒いところをお出でいただきご苦労さまです。先祖が残してくれたものを何とか維持に努めております。一昨年改築しましたができるだけ古いものを生かして再利用しょうと思いたち、あちこち民家の再生の事例を見にも行きました。何しろ昔の「ツシ」という物置きを何とか生活空間にとり入れたら何処で聞いてきたか、福井新聞のコラム・ライフマガジンfuで紹介された次第です。2階の梁は頭がつかえますが真中は高ものです。

●長い勤務を坂井農、福井農林、若狭東とお歩きになり、その善し、悪しを見られて如何がですか。

○新卒で坂井農に赴任し、農業教師として育てられ、農業教育の真髄を学びました。そして、福井農林に赴任した当時、職業教育全般の在り方が根底から見直され、刷新が矢継ぎ早にでて切迫感みたいなものがありました。

 私自身、学校農業がややもすると生産至上主義という風潮があり、このやり方でよいのか悩んでおりました。生徒が主体的に参加できる農場実習ができないものか、それが私の場合、「農業基礎」という教科の導入、その教科を私が担当するという形で実現できたのは何よりの喜びでした。

 生徒達の自主性を生かした栽培、栽培から得たものは生徒達のものになる。収穫の喜びを生徒達に分ち与えるという転換には非常に苦労しました。まだメロンが珍しい時に挑戦をして収穫したメロンを獲った時の生徒たちの嬉しい顔を見た時は、こちらも喜びでいっぱいでした。早速持って帰り、家の者にはもちろんのこと、中学の担任にまで差し上げてきた事が学校に返ってきて「よくぞあそこまで育てました」という感嘆の声になんとも言えない充実感を存分味わいました。

 実習とは農場運営の労働力のような面が前面にでていたように思われますが、多少なりともイメージ・チェンジにつなげることができたという、自負心を農業教師としてもっています。

それと切り離せないのが「くくり募集」です。農業科・園芸科を入学時に1本にして合格とし、2年に上る時に本人の希望を生かして選科していく。画期的な取組みで、制度・慣習を打破る難かしさは、理屈では通らないところを切替えに悩みながらの農業教育ではなかったかと振り返っています。

●難しい時代でしたね。よくぞ潜り抜けてきたという実感が伝わってきます。昔の思い出がこうも真に迫る思いでお聞きできようとは、どうもありがとうございました。


☆平山 計子先生(修明察調理師)
昭和36年から58年まで主人の「平山昇先生」と一緒に着任、調理師として、寮生の食事と日常の世話に四六時中没頭されました。


お出迎えをいただきまして、ありがとうございます。

○小浜迄の遠路をお越し下さいまして、朝早く出られたのでしょう?ここが私の家です。この庭は「平山園」として、こよなくいたわってきた花園です。一世一代を自慢にしてきた主人の庭なんです。主人の亡き後を見よう見真似で継いではいますが主人のようにはうまくゆきません、主人は平成9年12月14日に亡くなりました。(主人とは平山昇氏、実乳助手、舎監)

●修明寮へ赴任になるキッカケは何だったんですか?

○昭和36年7月1日、当時尾谷校長先生でした。先生の奨めで是非来て欲しいと懇請されました。私達は若狭にあった県職員寮、教職員寮に勤めていました。その時、若狭農林高校長の尾谷先生を知ることになり、福井への憧れに誘われて出てきました。福井と小浜、やっぱり違いがありました。

 あれから昭和58年まで、約300名の生徒に出会い、巣立ってゆきました。「おばさん おばさん」と呼ばれていろんな話し相手をしてきました。
 古い修明寮が立て替えられて、又立替えられて、2度目の改築では常住する部屋がなく新保町の1軒を借りて通いました。通いとなるといくらか距離感は出ましたが、正直言って楽にもなりました。風邪を引いたと言えば水枕に氷は欠かせませんでした。又、誰彼はああ言うた、こう言うたとの小言をなぐさめたり、すかしたり、舎監になられた先生にも厳しさ、甘さがありまして、厳しい先生には「帰ったらここは唯一の憩の場なんだから」とえらそうに頼むと、寮生から拍手喝宋、それにかこつけて寮生以外を連れてきたりすると叱ったり、それで生き方を教わりました。生徒のレクレーション要望を取り入れて、日曜にバスを借りて彦根城や海岸へ行ったのが印象に残っております。私も喜寿を迎えるんです。今は友達の勧めで刺繍を始めました。始めは細かい仕事で大へんだと思いましたが、「継続はカなり」の諺のように心のやすらぐ趣味になりました。

●充実されたお過しで、とても活き活きとしていらっしやいます。どうかお元気で、又若狭路博の見学の節は宜敷くお願いします。


☆前川光男先生(数学)
〒910-0022  福井市花月3-2-18
 昭和28年から37年まで、数学担任としてご指導いただき、又、部活動野球部の顧問としてもご尽力いただきました。
 
●お元気なお姿を拝見して何よりです。なかなか立派なお住いですね。福井農林高枚在任時代の思い出話をお伺いにまいりました。

○そんなに言われる程ではありません。福井農林高校後、福井工業高校、福井商業高校と務め、定年退職後も、私立高校に十三年間務めました。漸く退職し、落ち着いた生活を過ごしています。

福井農林高校在任時代の出来事には今なお印象が深く、クラス会に招待されると暖かい心のぬくもりを感じています。学校行事では田植上族祭、稲刈競技、農業文化祭と数多くの行事があり、それぞれ独自の雰囲気、季節感がありゆとりもありましたね。今の時代には通用しなくなりましたが、生徒達に提供させての農産物品評会。学校で屠殺して、豚汁を食べての収穫感謝祭等が印象に残っています。部活動では野球部の顧問であったことです。知人から「野球部の顧問をするんだって」と言われましたが、若気のいたり無我夢中で野球一筋に打込みました。当時の部員、坂下貞雄氏(農高11回卒、現足羽高校教頭)は母校福井農林高校野球部の名監督として活躍されましたが親交ある一人です。福井県高校野球連盟理事長の職を私から引継ぎしたことも野球を通してのつきあいです。

登山にも思い出があり、山岳顧問吉川先生にさそわれ、生徒40数名と富士登山の醍醐味を味わったことです。当時では富士登山は珍しい時代でしたが、その後も趣味として白山・立山・荒島岳等への登山を継続しており今日の健康の要因と思っています。

●突然のお邪魔で昔の思い出話ありがとうございました。一層のご健康をお祈りいたします。

☆白崎龍子先生(国語)
〒910-0022  福井市花月1-1-26 
昭和57年から平成8年まで、国語担当としてご指導いただき、特に創立宙周年史の発行には多大なご尽力をいただきました。
 
●お久し振りです。福井大仏を目指せばお宅ですから、迷わずにお伺いできました。「百年史」記念誌の編集には、本当にご苦労さまでした。

○そう言って頂くととても嬉しいです。当時、図書部長で百年史の編集役をおおせつかりました。最初は古い資料抹しから姑め、県立図書館にも何回か通い、卒業生のお宅にも直接お伺いしました。卒業生の方から思いがけない当時の記録、写真をいただいた時は本当にうれしかったです。

 1番苦労したのは、昭和28年から平成5年までの職員動向一覧表を作成したことです。一つのミスが信頼をなくすからです。今では百年史は、ひとつの歴史を集約した大事業としてなし遂げた満足感をもっています。文芸部で発行する「蒼林」の編集も長年クツチしました。文芸部員が編集企画で私の自宅で合宿し、その当時の卒業生が尋ねて来てくれる時が一番うれしいことです。
 退職後は中国語の勉強を続けていますが、その目的は中国旅行のためです。私は中国で生まれ、小学校3年生の時引き揚げ金津東小学校へ転入学しました。敗戦と同時に家を捨てて長春へ逃げましたが、当時の小学校生活の記憶がとてもなつかしく一度訪中したい願いを持っていました。実際に訪中して、昔の我家が電業社宅として残っているのには驚嘆しました。中国の張雅小学校には、私の母校金津東小学校の生徒作品や絵本を贈り、一週間子供達と学校生活を送り、日・中友好親善の役割も果たして来ました。今年の秋も訪中することを計画しています。

●今後の人生目的をお聞きして安心しました。体験談を福井農林高校の生徒達に聴かせていただきたいものです。


奉職38年を回顧して
     元教員    竹沢 喬

 竹沢 喬先生には、昭和26年から平成元年3月まで、実に38年間にわたり母校に奉職され、その間一貫して農業土木科の教育、発展にご尽力をいただきました。現在、なおご壮健にて坂井農業高等学校で講師としてご活躍されています。

 私は、昭和26年4月から定年退職(平成元年3月)まで、実に38年間、私の半生は福井農林高校と共にありました。昭和26年4月から高志高校に農業土木が県下で始めて創設されるに当り、大校長の故加藤竹雄先生に招かれて、以来、農業土木科教育一筋に生涯を捧げてきました。あまりにも38年間の思い出は数多くあるので、その中で今回は特に進路指導について回想したい。

 私が教師として一番張切ったのは進路指導である。農業土木は就職コースであり、出来る限り生徒の能力、適性、希望に沿った進路指導をするのが私に課せられた責務だと就任早々感じていた。1倍世話好きのタイプかも知れない。結婚の仲人も26才頃から17組もお話し、明るい、楽しい立派な家庭を築いておられる。生徒の希望、両親の要望を尊重して、出来る限り私は最善の努力をすることをモットーとして県内、県外を問わず昭和29年頃から毎年、春、夏の休みには東京、大阪、名古屋などへ行って進路先の開拓に励んだ。今思うと若い教師が大手会社の人事課長に直接会って、本校農業土木科の宣伝と売込み、国鉄工事局、東京都庁、大阪府庁や大阪市役所、日本大学、東京農大、近畿大学などの受験交渉など、今考えてみると実に強い心臓だったと思い出される。これも農業土木科発展のための愛情と若さでやれたものだと思う。良い生徒が入学するのは、良い出口の進路先が大切だと痛感していた。

年々土木科の能力も優れた生徒が入学し、在学中に2年で測量士補、計算尺2級合格を目標として3人の土木科教師が一丸となって指導した。成果は年々向上し、昭和40年頃からは100%近くの目標に到達し、全国有数の農業土木科になった。昭和35年頃からの国内経済の発展と公共投資ブームにのって建設関係は人材を求めてはいたが、毎年、次男・3男は大成、鹿島、人体、熊谷、飛島、前田五洋、日本舗道などの超一流大手建設会社、農林省、建設省、運輸省港湾関係、道路公団などに採用された。亦国立人学の農業土木(岐阜、鳥取、愛媛、岡山、山形)私立大学の土木(福井工大、金沢工大、日本大学、農大、近畿大、名城大、大阪工大)などに入学した。長男は、主に県内の官公庁、建築会社、測量設計会社に就職を世話した。お陰で県内の土木関係ではどこへいっても必ず土木科卒業生に再会できて、元気で頑張っている様子を見て実に私は嬉しく思っている。

土木科創設以来、20年間は毎年夏、春の休暇には就職先を訪問し、就職後活動や要望などを調査して、数多くの参考になりただちに教育に取入れて実践し非常に効果が上がった。あるときは、東京2泊3日で15社訪問し、疲れてふらふらになって帰省したこともあった。私は在職中、毎年巣立つ土木科生は、必ず、陰に陽につけ進路の世話をしてきた。生徒の就職こそ終生の職業であり、生きるための生活の場を与える大事な使命を私は課せられているものと信じ、喜んで全力を投球して努力してきた。従って毎年3年生になると必ず生徒の能力、性格、希望、家庭環境、両親の意見を調査し、これを頭に入れておくのが私のしごとであり希望に沿う求人の開拓や連絡も夏休みに完了しておくのが年中行事であった。人の世話ほど苦労と責任とやりがいはあるが、喜んでくれる生徒、父兄に対して、微力ながら、最善を施した結果が希望達成で喜ばれることを非常に楽しみであった 本校土木科卒業生の90%近くが、3ヵ年間で学んだ土木技術を一生の職業として各地で大いに活躍してくれていることに私はたのもしく思い、感謝と感激で一杯である。

卒業生の多くは社会に出ても絶えず努力し、技術士(4名)、土地家屋調査士、建築士一級、測量士、施工管理技士一級などの有望な国家試験を取得して、その仕事に励んでいることも実に立派で感激している。
 私は在職中、「太郎」の愛称で通り、卒業生には土木関係の官公庁や、会社には相当数の幹部が多くなった。若い卒業生の皆さんは農友会名簿を見て先輩を頼って指導や便宜を計ってもらいたい。太郎に習った第○回の○○○○ですと言って紹介し、お互いに助け合って業績を上げてほしい。
農友会の皆さんは皆、実に母校愛に燃え後輩にやさしく指導してくださる立派な方々ばかりです。今後益々会員の皆さんは体を人切にして頑張ってください。ご発展と活躍を祈ります。



福井農林高等学校での奉職に思う

    元教頭  白川 滝之助

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白川滝之助先生には、母校に昭和28年4月より昭和54年3月までの長きにわたりお務めいただき、その間指導部長、教頭として母校の発展にご尽力をいただきました。特に女子バレー部の顧問としてのご活躍は目覚しく、福井国体当時は全国的にも最高チームとして、福農女子バレー部の黄金時代を築かれました。現在、なおご壮健にて、森田公民館長として、地域社会の発展にご活躍されています。

 私は、昭和28年4月、高志高校より福井農林高校として分離独立した年に赴任しました。当時の校合は、古い本館、教育教棟、元県会議事堂を改築した体育館のみで、地震の足跡が残る元校合基礎の後片付けに、放課後の作業で汗を流す毎日でした。昭和30年頃は、学校が独立した当初で、校則、生徒会規約の制定に、生徒会、各部(文化、体育、農業)の活性化に、校舎の整備再建等に、赤沢虎太校長を先頭に教職員、生徒が一体となっての努力の時代でした。本館、体育館が完成された時は、全く感無量でありました。35、36年頃は全校一致の団結で活気に溢れ、学習活動、部活動には目ざましいものがあり、その成果とともに立派な校風を樹立しました。特に文化部での新しい企画としての中学校招待弁論大会の開催、体育部では野球部の準優勝、バスケット、サッカー、相撲、女子バレー各部の優勝、農業クラブ全国大会での最優秀賞受賞等の実績を挙げることができました。

私は、赴任早々男女バレー部の顧問となりましたが、酒井武夫先生が新任で来られて男子バレー部の顧問をお願いしました。先生の熱心な指導で全国大会にも出場し、選抜優勝大会には2度男女揃って出場することができ、全国でも珍しいオシドリ出場と報道されました。
 女子バレー部は、35年北陸三県、北信越、全国大会予選の各大会で3年目にして県内、近県で優勝することができました。浜松での全国大会では、全国の雄、兵庫県代表園田学園と対戦となり、初出場のハンデーで一回戦突破はできなかったが、福農女子バレー部の名を全国に紹介された第一歩でした。37、38年は、大阪四天王寺高校、関東の雄、久喜高校、東海の雄、豊橋東高校を相手に招待試合、遠征と錬磨を重ね、42年の福井総体では準々決勝で、北信越の雄、高田北城高校に勝ち快挙を成し遂げました。準決勝では前年度優勝校、大阪四天王寺高校と対戦、1セット先取、互角で戦いながら結果敗れはしましたが、全国ベスト4の成績は思い出として忘れられません。
 43年の福井国体の年は、中部日本予選が静岡県で開催され、東海の雄、浜名高校、岡崎女子高校両校ともに14対2の劣勢から立直り死闘の結果優勝することができました。又、広島市での全国大会では、準決勝で地元飾ケ峯高校と熱戦の試合であったが、2対1で惜敗しました。
 県民の期待を一身に背負ってひそかに全国制覇を目指しての福井国体は、敦賀市で開催されました。1回戦は、長野県代表北城高校に2対0で快勝、準決勝で兵庫県代表鈴ケ峯高校との対戦は無念にも敗退しましたが、3位となりその戦い振りは高く評価されました。 

私は、その後、指導部長を拝命し10年間にわたって生徒指導、部活動の振興に勤めました。信条、努力目標として
1、何事にも全力を尽し、最後まで目的達成に努力する。
2、如何なる時も、忍耐強く他人に負けない頑張り精神を持つ。
3、自分に謙虚で、他人、社会に奉仕する。
4、退学者、特別指導者の皆無。
5、部活動への全員加入の推進。
等をモットーにして努力しました。26年間の長きにわたり、最後は教頭として勤務いたしましたが、その間、多くの先生方との出会いと数々の思い出、創立40周年記念から70周年記念までの居合せ、又、女子バレー部顧問としての限りない労苦等、今思えば感無量であります。

 美方養護学校長を最後として退職した現在、森田公民館長として地域社会の発展に貢献する日々を送っておりますが、職務上、県庁、市役所、各会社等にお伺いする機会があります。福井農林高校在任中での卒業生の皆さんがそれぞれの職場で
ご活躍されている勇姿に接し『福農百年の伝統、梅花香りさめず』の感がいたします。母校愛に燃える卒業生皆様のご活躍とご健勝、ご多幸をお祈りいたしております。


平成18年11月27日、白川滝之助先生のお宅を訪問しました。
先生は、母校に昭和28年4月より昭和54年3月までの長きにわたりお務めいただき、その間、指導部長、教頭として母校の発展にご尽力をいただきました。特に、女子バレー部の顧問としてのご活躍は目覚しく、福井国体当時は全国的にも最高チームとして、福農女子バレー部の黄金時代を築かれました。
35年、北陸三県、北信越、全国大会予選の各大会で3年目にして県内、近県で優勝。浜松での全国大会では、全国の雄、兵庫県代表園田学園と対戦となり、初出場のハンデーで一回戦突破はできなかったが、福農女子バレー部の名を全国に紹介された第一歩でした。37、38年は、大阪四天王寺高校、関東の雄、久喜高校、東海の雄、豊橋東高校を相手に招待試合、遠征と錬磨を重ね、42年の福井総体では準々決勝で、北信越の雄、高田北城高校に勝ち快挙を成し遂げた。準決勝では前年度優勝校、大阪四天王寺高校と対戦、1セット先取、互角で戦いながら結果敗れはしましたが、全国的にその名を馳せ、全国ベスト4の成績は思い出としていまでも忘れられない。福農を「日本一のチームにしたい」、その一念でがむしゃらに頑張ってきた。と話された。

好きな言葉は、福澤諭吉の心訓で「世の中で、一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つと云う事です」・「踏まれても、踏まれても忍べ、道芝のやがて芽をふく、春は来るべし」を常に心に刻み、選手には「成せばなる、成さねば成らぬ何事も、成らぬは人の成さぬなりけり」と叱咤激励をしながら、寸暇を惜しんでハードな練習、とにかく練習に明け暮れる毎日だった。そのお陰で・・・声をつまらせながら・・・生徒は毎日よく耐えてくれたなあ・・・とか、コート作りや、特に、選手集めのスカウトはつらかったと、当時のことを振り返り、時折、目に涙を浮かべ、さらに、福井農林学校はよかった。高等学校の中で一番や、人と心と心のふれあいがあった。と当時をなつかしそうにお話をされた。

現在、82歳、少し体調を崩したこともあって、体力がやや衰えせいか、最近はあまり外にも出なくなった。出たくないともおっしゃっていました。酒も飲まなくなったようですが、食欲の方は旺盛で、お元気で私たちに対応してくれました。
予定していた時間を約1時間もオーバー、元気な様子を会報でお伝えします。ということで自宅を後にしました。尽きない思い出話の数々、貴重な体験をお伺いし本当にありがとうございました。先生の今後益々のご健康をお祈りいたします。


野尻 憲治 氏(農林42回卒)

野尻憲治先生には、昭和25年より14年間にわたり、理科指導を通じて、母校の発展にご貢献いただきました。
 母校が農業高校として独立した時代で、生徒会、部活動の活性化にもご尽力いただきました。
 晩年は、特殊教育に情熱を捧げられ、福井養護学校長ご勇退後、現在なおご壮健にて福井県盲教育振興会会長としてご活躍されておられます。

私は、昭和22年、東京農業教育専門学校(後の東京教育大学)を卒業しました。その頃、教員養成学校の卒業生には、新任の学校が決まると文部省から出向の辞令が出たもので、私には、「兵庫県へ出向せよ」との辞令が出ました。新任校は、兵庫県立三田農林学校(現兵庫県立有馬高等学校)で、我が福井農林とは肩を並べる由緒ある学校。数年前に創立100周年の記念式が挙行されました。
私は、この学校で駆け出し時代の勉強をしていましたが、昭和25年の途中、7月末日付で福井県高志高等学校へ転任することになりました。
 当時の高志高等学校は、昔からあった福井農林学校を農業課程として新保町に置き(北校舎と称す)、新しく普通課程、家庭技芸課程を設け、御幸町の旧福井高等女学校の跡に校合を新築(南校舎と称す)して、総合制高等学校を名乗っていました。
 北校舎では「化学」「農産加工」を教え、南校合では 「一般社会」「生物」を授業しました。勿論、それらの科目の免許状は持っていましたが、沢山の科目を教えていると、自分が何の専門であったのかが、判らなくなってしまいます。ある日、ホームルームの余興で、「ある先生から、1限目に化学、2限目に生物、3限目に社会、4限目に農産加工、5限目に土壌肥料を教わりました。その先生は誰でしょうか」といわれて、当惑したことがあります。以来、転勤した藤島高校でも、非常勤になっても、化学以外を担当しないことにしていました。

 福井農林高校が高志高校より独立した翌29年から震災仮校合が次々と建て替えられました。そのとき、普通教科では化学教棟が真っ先に改築されました。実験室、器具室、薬品室、天秤室、ドラフトチェンバー、暗室、課外実験室、教官室の入室を備えた、高校には例のない見事な教棟を与えられ、入り口には黒痕鮮やかに「化学教棟」と校長自筆の看板が掲げられました。私は、この感激に応え、化学5単位のうちの2単位を、毎週2時間連続実験に当てることにしました。そして、学校長赤沢虎太先生の持論「農学を志す者は先ず自然科学を修めるべし」とされた高い識見に改めて敬服したものです。

私の化学実験は、いつも、理科助手田中邦男先生の緻密で正確なサポートによって助けられました。先生は、独立校第1回の卒業生で、仕事にもスポーツにも万能多才、私の自慢の教え子で、化学教棟落成を見込んで要員として採用されました。
 先生は、化学教棟での理科の仕事をこよなく愛されており、又、卓球に堪能で、熱心に卓球部員の指導に当たられました。卓球部は私が顧問をしていましたが、私の無能を補って、名コーチとして指導され、県下高校卓球界でメキメキと頭角を現し、遂に全国人会、北信越大会へも県代表として出場するまでになり、数年間、福農卓球部の黄金時代の正夢を見ることができました。



金谷 精 氏(農林43回卒)

 先生は、昭和23年我が母校に奉職され、農業教育の振興にご尽力いただきました。坂井農業高等学校長を最後にご勇退となり、現在自称オスカーケルネル農場を経営されています。

東京駒場農場での思い出
 私は大学時代、作物学を専攻し、水稲栽培と農業の機械化に関する研究を続けました。
特に水稲田植え機の実用化については、現在の田植機の普及状況をみるにつけ感慨深いものがあります。当時の思い出を振り返ってペンを走らせることにしました。
 恩師、山崎守正博士の御指導により作物学を専攻した私は、駒場農場の水田20アールで、「水稲の生育時期別かんがい水穫試験に取り組み、育苗から収穫まで毎日の生育状況の観察を続けました。特に、育苗では、機械化に対応させるための苗作りを研究のポイントに掲げ、春から秋まで一度も帰省することなく、研究に没投しました。実験結果のまとめでも、寝食を忘れる位の思いであったものです。
結果の整理も終り、考察をするため、先生の御指導をいただいたが、先生は「君の実験結果では、育苗はあまり水を必要としないとの結論となっているが、これは大きな実験の成果だ」と賞讃して下さった。
水稲の初期育成には畑上でも対応出来ると云うことであります。
このことは田植の機械化に重要なことであったのです。先生は、日本作物学会の会員であったこともあり、私を学会に同伴させ、私の実験結果を席上で披露して下さるなど、特段の配慮で感銘を覚えました。
これが緑で、先生は、私を神奈川県平塚農業高校へ教員として推薦して下さったのです。
同校で教べんをとった私でしたが、途中、家事都合により、福井へ帰らねばならなくなりました。幸いにして、駒場出身の母校の校長先生のお陰で、母校福井農林高校へ勤務することになりました。
 私は、駒場で学んだ経験を、生涯を通じて継続しなければと、福井農林でも、生徒達と共に、研究に打ち込んだつもりです。そのかいあって、下中財団教育研究賞を受けることとなりました。

田植機開発に貢献
 昭和37年秋、東京日比谷での日本学校農業クラブ全国大会で、田植機に関する研究発表を行ったが、この内客や、機械の設計等が、日本農業機械化研究所の目に止り、注目を浴びました。実験、研究データの提供等もあり、私達の研究がその後の田植機開発の参考に供されたことを思うと、感無量の心地です。
 具体的に私達のデータがどう生かされたかは定かではありませんが、微力ながら、開発の礎の一端に寄与したものと自負しております。
 私はその後、県教育委員会の指導主事となり、研究から遠ざかりましたが、田植機の普及、改良が進むにつれ、昔なつかしい駒場での青春時代に想いをはせることがあります。
 同時に農業教育が私の人生そのものであり、この道一筋で歩んだ誇りと喜びを感じます。
 現在では老後の楽しみにと、家内が相続した農地を利用し、自称「オスカー・ケルネル農場」と名付けて、野菜等を中心に年間30品種の作物栽培に取り組んでいます。「人生最後の日まで駒場の理念に生きつづけたい。」これが私の、農業に対する執着でもあるのです。
 
「注」 オスカー・ケルネル明治19年ドイツより、東京帝国大学教授として着任、その後、我が国の農業高校の礎を築かれた師。



恩師の近況   酒井武夫 先生  丸岡町上金屋3-23

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・昭和57年3月、福井農林高校より坂井農業高校に転勤し、平成6年3月 定年退職、その後私立学校に6年余り勤務平成12年3月退職、お陰様にて今のところ元気でおります。田畑約1ヘクタール 山林少々天気がよければ田畑や山林で作業に従事しています。雨天のときは時代小説などを愛読しています。農林高校時代に農林実習やバレーボール部活動に生徒の皆さんとともに励んだ当時のことを懐かしく想い出しています。

・今年は正月早々若干体調をくずしましたが今は元気でおります。僅かばかりの田園と山林を相手に天気が良ければ作業に従事して体力の維持に努めています。農友会よりの「大地」を拝読することによって、長年お世話になりました農林高校の生徒の皆さん、農友会員の皆さまが益々ご活躍されていることを知り大変喜んでいます。農友会の益々のご発展を心からお祈りいたします。

平成18年12月23日、酒井武夫先生のお宅を訪問しました。
先生は、母校に昭和32年4月より27年間の長きにわたりお務めいただき、農業工作の授業実習で工具箱や本箱・イス・設計図等の製作、幸運にも農業土木の平板測量で農業クラブ全国大会に3回出場を果たすことができ、優秀賞等をいただいたことの思い出はいまでも忘れられない。それから、特に、男子バレー部の顧問としてのご活躍は目覚しく、先生の熱心な指導でインターハイ・国体・全国総合等の全国大会にも出場、選抜優勝大会には2度男女揃って出場、全国でも珍しいオシドリ出場も報道され、男子バレー部の黄金時代を築かれました。

先生は、赴任早々男子バレー部の顧問となりましたが、素人の私を手取り足取りしながら指導していただいた白川先生をはじめ、バレーの好きな生徒にも恵まれ、練習はとにかく強いチームとの練習試合を多くやった。そして、相手の練習方法を盗んだりして、また、がむしゃらに頑張って練習をやったものだ。特にバレーボールの基礎を作った頃は、弱かったけれども先輩が後輩を熱心に指導してくれた。その当時の福井農林高校は活気があり、頑張りやの生徒が多かったし、とにかく、「福井農林はよかった。自分で汗を流し、いい人間を作っている。」、「高等学校の中で一番や、人と心と心のふれあいがあった。」そういう面では私は本当に幸せやったと、当時をなつかしそうに振り返りお話をされた。

現在、73歳、少し体調を崩した時期もあったので、最近では、大好きな酒もほとんど飲まなくなったとのことです。尽きない思い出話の数々、当時の生徒の名前もしっかり覚えておられびっくりしました。
最後に先生は、生徒さんが将来親になった時に、子供に自慢できるようなことを、「お父さん、お母さんの高校時代は、勉強や部活でこうして頑張ってきたぞ」というような体験を一つやっておく、こんなことが大事ではないかと思う。是非、こんな高校生活を送ってほしいと、エールを送っていただきました。本当にありがとうございました。

 去る、平成19年1月11日、先生がお亡くなりになったという悲報に接し、あまりにも突然なご逝去で、私は唯、茫然と立ちつくしております。私が取材を終えて、それから数日も経たないうちに先生は、あの世に旅立たれたとは、誰が想像したでしょうか。お会いした折は、たいへんお顔色もよく、あと少しで退院できるからと、先生自ら申しておりましたのに、驚きとともに深い悲しみで一杯でございます。今後は、私も先生からいただいたご教訓を人生に生かしていくことがご恩に報いる道と思っています。先生の生前のお姿を偲びつつ、心からお悔やみを申し上げます。                 (享年73歳)



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